2006年4月19日(水)、中野区沼袋の「シルクラブ(山田屋)」で開催中の「軽さを愛でる染と織−ひとえのきもの展−」を見てきました。
ちなみに、今日の私のいでたちは、以前こちらで購入した小豆色の縞お召(西陣・矢代仁)。それに季節に合わせた切り金をあしらった藤色の帯(リサイクル品)。
入口に展示されていた黄色と黄緑、それに赤の格子柄の首里花織に、まず目を奪われます。色味が実にさわやかで、生地も軽く織りも繊細で、なんともすばらしい。でも、お値段も破格でした。
室内には、江戸小紋、西陣お召、結城縮、本塩沢、牛首紬(石川県白峰村産の紬)など、単衣向きの反物がいろいろ並んでいます。中でも目に止まったのは、水色の涼しそうな白鷹紬(山形県西置賜郡白鷹町産の紬)。でも、これもお値段が・・・・。
こうした技術の粋を集めたような手織りの織物が、7桁のお値段になるのは、労賃×日数+技術料+材料費を考えれば仕方がないというか、ある意味、当然。でも、この着物離れのご時勢に、いったい誰が100万単位の反物を買うのでしょうか?お金が余っている新富裕層の女性たちなら、金額的にはポンと買えるでしょう。でも、はたして彼女たちが反物(和装)に興味を示すでしょうか?
私には、そういう新富裕層の女性たちは洋物のブランド品に走るような気がします。
なぜなら、お金持ちが見栄で、高価なものを買うとき、絶対に必要な条件は、見栄を張る範囲の中で価値観が共有されていることだからです。具体的に言えば、豪華なホーム・パーティーに集まる客たちが、このブランドの今シーズンの新作なら何100万するという共通認識をもっているからこそ、それを身につけることで、周囲から「すごいわねぇ」という称賛を受けられ、見栄が張れるのです。でも、それが着物だったとしたらどうでしょうか。その着物が白鷹紬であることを見抜き、その価値を知る人がホーム・パーティーの客の中にどれだけいるでしょうか? 誰も気づかない、価値がわからないでは、いくら高価なものを身に着けていても、自己満足にはなっても見栄張りにはならないのです。
今から15〜20年前、80年代後半のバブル期には、高価な着物が飛ぶように売れました。お金がザブザブ余っているバブル成金の連中が、自分の奥さんや愛人に、高価な着物をどんどん買い与えたからです。当時のお金持ちたちにとっては、まだ高価な着物はステータス・シンボルだったのです。なにしろ銀座のホステスを口説くのに、100万の着物(+50万の帯)をプレゼントするなんていうのは、珍しい話ではありませんでした。身も蓋も無い言い方をすれば、男が女1人を口説けば、高価な着物が1枚売れた時代だったのです。
しかし、女は、男の手前、一度はその着物を身に着けるものの、その男に特別な気持ちをもっていない限り、たいていプレゼントの着物は、そのまま箪笥の引出しの奥に仕舞われてしまいます。
実は、現在、そうした退蔵された高級着物、バブル期の遺産というべきものが、リサイクル着物市場にドッと放出されてきています。花織も白鷹も牛首も、根気よく探せばそれなりのものが、まずまずのお値段(市価の3〜4分の1くらい?)で見つけることができるでしょう。私のようなリサイクル着物を愛用する側からしたら、たいへんありがたい話です。
少し知識があるユーザーなら、そうしたリサイクル品を探し、3〜4倍のお金を出して新品を求めようとはしないでしょう。つまり、現代の着物業界は、ひとつひとつの企業ではそうでなくても、市場全体としては、そうしたバブルの負の遺産を大量にかかえているのです。着物を作る側、売る側からしたら、これは見えない不良在庫です。新品の着物が売れないのは、ある意味、当然、構造的な問題なのです。
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