2005年4月3日(日)、世田谷三軒茶屋のキャロットタワー4Fの「生活工房」で開催された京都古布保存会主催の「銘仙講演会」に出席してきました。
一つ目の講演は、笹岡洋一さん(風俗研究家)の「銘仙にみる人々の暮らしぶりと感性」。銘仙出現期の江戸期の資料を紹介した後、明治〜昭和にかけての小説に見える銘仙を、たくさん紹介してくださりました。明治期は、銘仙といっても男物の地味な縞銘仙が一般的だったことがわかります。私は、銘仙に関する新聞記事はかなり集めているのですが、小説類はまだあまりチェックしていなかったので、大いに参考になりました。
80歳を越えている先生なので、実際に銘仙が着られていた時代を見ていらっしゃることも貴重です。そうした方の目からすると、ただ派手な色柄の銘仙だけに注目する現在の「銘仙ブーム」には違和感をもたれていることも、言葉の端々からうかがえました。銘仙のような大衆向け大量生産品だけではなく、もっと上質の着物を見て、上品な感性を養いましょう、ということなのでしょう。ごもっともなのですが・・・・。
二つ目の講演は、新井正直さん(群馬県繊維工業試験場)の「銘仙の意匠とその製法」。パワーポイントを使った具体的かつ詳細なお話で、私が知っていることも知らなかったこともありましたが、今まで読んだり聞いたりした銘仙に関するお話の中で、最もレベルの高い内容でした。
私が特に注目したのは、銘仙関連の技術とデザインを経時的に表した図。絹紡糸、化学染料、解し絣、力織機という銘仙の工業的大量生産を可能にした技術が出揃うのが、大正期であることがよくわかります。細かいことでは、金糸・銀糸の織り込みは昭和初期の流行であること、昭和10年ころには、風合いの多様化(お召模倣や地紋加工)が行われるなど、ちょっと目には銘仙なのかお召なのか迷うような商品が作られたことなどがわかりました。
また、大正元年から昭和12年までの主要生産地の銘仙生産数の推移グラフにも注目。伊勢崎が他を圧し、秩父、足利、八王子が続いています。足利は昭和1桁代に急上昇して伊勢崎に迫っていることがわかります。一方、銘仙の5大産地の一つに数えられている桐生は、他の4所に比べるとかなり落ちます。グラフでは、どの生産地も昭和10年頃から急減して、12年には秩父以外ほとんど銘仙の生産がゼロになってしまいますが、実際にはそんなはずはなく(昭和15年頃まで生産は続いていたはず)、統計上、品目の名称が変わったせい(具体的には「お召」として分類?)かもしれないとのことでした。
生産者としては、売れることが第一であるので、銘仙がブームになれば、製法的には銘仙でなくても「〇〇銘仙」という名前で売るし、逆に、お召がブームになれば、製法的には銘仙であるものに風合い加工を施して「〇〇お召」として売るようなことが行われたそうです。したがって、製法と販売名称は必ずしも一致しないというお話、「なるほど」と思いました。
ちなみに、私が着て行った伊勢崎銘仙の卍崩しの意匠を新井先生にお見せしたところ、見ようによってはナチスドイツの紋章なので、昭和11年(1936)の日独防共協定に影響された意匠なのかもしれないとのお話でした。
講演会が終わった後、先生方が参考に持ってこられた銘仙を見せていただいた時、笹岡先生に「良い帯をしているね。上手に着ていますよ」と目に止めていただきました。うれしい・・・・(感激)。
ちなみに、この日の私の出で立ちは、黒地に銀と白で卍崩しを織り出した伊勢崎銘仙に、樺色、錆朱、黒の横縞の帯。長襦袢&半襟&帯揚は芥子、帯締は若草色でした。
講演会の後、会場で並んで座っていた藤娘さんとツーショット撮影。藤娘さんは、紫かかった藤色の地に白で細い矢絣を織り出した絣銘仙。派手で華やかな色柄の解し銘仙ばかりが銘仙ではないわけで、むしろ、昭和初期のお母さんとしては、彼女のような地味な色柄がスタンダードなのだろうなと思いました。
「京都に残る100枚の銘仙展」をもう一度見せていただき、主催の似内恵子さんにご挨拶して辞去しました。
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