まず、 著者の少女時代、明治42年(1909)頃の思い出です。木綿の筒袖の着物を着ていた田舎(北海道札幌市)の女学生にとって紫のかすりの銘仙は「匂うように美しく、上品ではっきりしてゐて、鮮かに東京の女学生を代表してゐると思はれた」そうです。実際に著者は「みどりいろのぶつぶつした生地の絹の着物」を着て通学し校風に反するとして注意された東京の女学校からの転校生との間で「これ、銘仙でせう?」「ええさうよ。東京の女学生のふだん着なのよ」という会話を交わしています。田舎の女学生にとっては、銘仙=東京の女学生というイメージだったのです。
数え歳17歳で、初めてあこがれの紫の銘仙を作ってもらった著者は、「銘仙の着物は糸織よりも八丈よりも軽くてぶつぶつした手ざわりが、何か人なつこい感じ」で「あたたかく人をつつむと思われた」と、その体感を語っています。さらに「紫のかすりの銘仙は、忽然として自分の身辺に、娘らしい艶めいた空気をつくり出すやうに思はれた」。「昨日までの自分とは、全然ちがふ自分がそこにあった」と、紫の絣の銘仙が、少女から娘への開花のイメージを伴っていたことを述べています。
この点について著者は別の箇所で「銘仙には何か初ひ初ひしい感じがあって、若い娘や新婚のひとを想い出させる。ほかの反ものにはない感覚で、これが銘仙の強味ではないかと思ふ」と語り、「無垢」「清潔」「新鮮」というイメージがあることを述べています。しかし、この初々しさや清潔さは、大人の女に成長していく直前の娘のそれであって、近い将来の性の開花をほのかに予想させる「艶めいた空気」を伴うものだったのです。
こうした銘仙のイメージから、著者は、銘仙の似合うのは、娘らしいしなやかな感じの人で、自分のように「朝から晩まで本にばかりかじりつき、裁縫の大きらいな」タイプは、銘仙が似合わないとしています。それは「銘仙という生地は庶民的な、親しみやすいものに思われてゐるけれど、その性格の中に何処か一点山ノ手風の、つまりお上品なところ」があるからだと述べています。そして、銘仙の似合わない人は、「結城が似合ひ、大しまが似合はない」、「銘仙の性格は大しまとも共通している」とも語っています。
このように銘仙に対するイメージは、かなり複雑なものがあったようですが、庶民的でありながら都会的な華と艶をもった娘らしさを感じさせる着尺というイメージに収斂されるように思います。
著者が、もうひとつ指摘しているのは、銘仙のイメージの地域差です。「どういふものか関西ではあまり銘仙は歓迎されない。西陣にお召のあるせゐであらうか。肌があはぬといふのであらうか。銘仙の持つ清潔と、何となく知的な感じが、商人の町であった大阪や堺の女に素直に受け取れなかったのであらうか。それともくっきりと明るい空、白い土に、ほのかに憂ひをたたへた銘仙の色あひが調和しないのであらうか」と、あれこれ理由を挙げているますが、銘仙の需要には、関東と関西では明らかな地域差があったようです。
具体的に言えば、大阪のいとはんは、銘仙を日常着に着るけども、それは彼女にとって着物の初歩に過ぎず、まもなく村山大島や多摩結城などに移り、さらに本物の大島や結城を着るようになっていく、それに対して東京のお嬢さんは、長い間、銘仙を着る、お嬢さんだけでなく老後の婦人も、縞銘仙の綿入れなどを着ているというのが、銘仙の着方だったようです。
著者は、「銘仙は関東の女の一生を支配すると言っても過言ではない」という一文でこの随筆を結んでますが、銘仙は関東の風土が生んだ織物であり、それがある意味では田舎者の集合体である東京で愛されて、モダンという都会のイメージを帯びたものの、平安時代以来の雅やかな服飾の伝統を持つ京・難波の女たちには、それでもなお田舎臭く感じられたのではないでしょうか。
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