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2. 銘仙の町の思い出

(1)艶やかなる銘仙
1. はじめに
2. 銘仙の町の思い出
3. 銘仙の歴史
4. 銘仙のイメージ
5. おわりに
(2)あやしい着物
(3)銘仙雑考
(4)ちょっとあやしいきもの論

私は、四周を山並に囲まれた北関東の小さな町、秩父に生まれ育ちま した。「秩父銘仙」の名で知られるこの町は、平地に乏しく田圃が少ないこと、大消費地である江戸(東京)に近いことから、江戸時代から蚕を飼い、生糸をつむぎ、機(はた)を織ることを主な産業としてきました。「秋蚕(あきご)しもうて、麦蒔き終えて、秩父夜祭り待つばかり」と民謡(秩父音頭)に唄われているように、一年間の苛酷な養蚕労働を終え、収穫を神に感謝しつつ、生糸と絹の大市が立つ「霜月祭」(12月3日の秩父夜祭)の豪壮華麗さは、蚕と絹に支えられたこの町の繁栄を今に伝えるものです。

写真1

農家の縁先で糸車をまわす女性。
こうした山村の自家用織物が秩父銘仙の原点なのです。
(清水武甲・千島寿『ふるさとの想い出 明治 大正 昭和 秩父』国書観光会 1983年11月)

小学校に通う道の途中には、機屋さんの工場がいくつもありました。採光のための鋸(のこぎり)型屋根の大きな建物の中から聞こえてくるジャッカジャッカという自動織機の音は、あまりにもリズミカルで、建物の特異な形と相まって、幼な心には何か不気味な感じがありました。

写真2

昭和30年(1955年 私が生まれた頃)の秩父の街。
(『ふるさとの想い出 明治 大正 昭和 秩父』)

写真3

代表的な織物工場、秩父郡横瀬町の「坂善」(昭和30年11月の撮影)。
長屋門の左側の鋸屋根の工場の前に桑畑が広がってます。
(『ふるさとの想い出 明治 大正 昭和 秩父』)

写真4

現在、わずかに残る鋸屋根の織物工場
(秩父市道生町 2002年8月撮影)

小学校の周囲は桑畑と麦畑ばかりでした。理科の時間に先生に連れられて、近くの養蚕農家にお邪魔し、お蚕や繭を見せてもらったことがありました。数えきれないくらいたくさんの白いお蚕が緑の桑の葉を食むザワザワとした音が今でも耳に残っています。もらってきた繭を一つ、小箱に入れて机の引き出しに仕舞い、そのまま忘れて、しばらく経って開けたら、白い小さな蛾の死骸が穴の開いた繭とが出て来て、蚕が蛾の幼虫であることを実感したのもこの頃でした。
 
また学校からの帰り道、いつもの通学路からちょっと寄り道すると、物干し台をすごく高くしたような所に、赤や黄色、緑や青、それに紫などに染めた糸が干してあり、色とりどりの糸束が美しく風に揺れていたのを覚えてます。青い空と緑の山を背景にした五彩の滝のような情景は、はっきり心に残っています。その側の桑畑では甘酸っぱい桑の木の実(ドドメ)が黒紫に熟れていて、つまみ食いしたら唇や舌が紫に染まってしまい、母親に叱られたこともありました。
  
私の小学校時代は、昭和30年代の後半から40年代の初めです。昭和39年(1964)の東京オリンピックの前後、日本が戦後の復興期を完全に脱して高度経済成長に向かう転換期でした。着尺(着物地)としての銘仙はすでに全盛期を過ぎ、織物産業は徐々に斜陽に向かい、座布団皮や布団カバーなどの生活用品に活路を見い出していた頃だと思います。機屋さんから銘仙の布団カバーがお中元やお歳暮として届けられたのを覚えてます。それでもまだ4階建ての織物組合のビルは、田舎町では市役所に次ぐ高層建築だったし、町の有力者も機屋さんや買継商など織物関係の人達が中心で、「織物の町」という感覚は、はっきりと有りました。
 
ところが、いつの頃からか、桑畑が宅地や織物以外の工場などに変わり、機屋さんの工場からも、あの自動織機の音が次第に消えていきました。記憶をたどると、それは、私が中学校を卒業して、電車通学で1時間半もかかる遠い町の高校に進学した頃、昭和45年(1970)前後だったような気がします。この頃から、地場産業としての機織は急速に衰退していったのではないでしょうか。
 
秩父銘仙の町を故郷に育った私の少年時代の思い出です。

(後記)
井上光三郎『機織唄の女たち−聞き書き秩父銘仙史−』(東京書籍 1980年10月)には、秩父織物(小幅織物=主に着尺と小幅夜具)の生産量を示した表が付載されています。

秩父織物(小幅織物=主に着尺と小幅夜具)の生産量
35 生産量 備考
1902(明治35)

107,000

1908(明治41)

228,523

1913(大正02)

398,000

1921(大正10)

879,095

1927(昭和02)

1,037,194

1931(昭和06)

879,589

昭和大恐慌(二大買継商倒産)
1935(昭和10)

1,277,953

1941(昭和16)

1,552,269

戦前の生産高最高
1947(昭和22)

185,628

1951(昭和26)

1,497,337

繊維製品統制撤廃
1955(昭和30)

2,046,616

1963(昭和38)

2,121,841

統計上の生産高最高
1967(昭和42)

1,464,802

1971(昭和46)

1,111,527

アメリカ、繊維輸入制限
1975(昭和50)

709,450

1979(昭和54)

790,009

生産量の単位は疋

これによると、昭和30年には戦前のレベルを回復し、私が小学生だった昭和30年代の終わり頃が生産量のピークだったようです。ところが、私が中学校に入る頃の昭和40年代には急速に衰えて最盛期の3分の2に減少、そして故郷を離れた昭和50年頃には3分の1にまで激減していることがわかります。
 
私の「思い出」はそれほど間違ってはいなかったようです。

写真5

井上光三郎『機織唄の女たち−聞き書き秩父銘仙史−』
(東京書籍 1980年10月)

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