1 はじめに
台北市では、1997年9月6日にそれまで市が公認していた18軒の娼館が閉鎖され、市が発行していたセックスワーカーの営業ライセンス(許可証)を一方的に取り上げるという事態が起こりました。それまで18軒の公娼館で合法的に働いていた128名のセックスワーカーたちは、いきなり生活手段を奪わることになり、激しい反対運動を繰り広げました。その結果、1999年1月になって、暫定的処置として転職のための2年間の猶予期間を設けるという法律が公布されましたが、猶予期間が終わった2001年3月に台北市の公娼制度は完全に廃止されました。現在でも、ライセンスの再交付を求める元セックスワーカーの運動が続いています。
(この問題に関しては、日本ではほとんど唯一「セックスワークの非犯罪化を要求するグループ(UNIDOS)が支援・啓蒙活動を続けています)
私を台湾に呼んでくださった台湾国立中央大学のジョセフィン・ホー教授が、その運動を支援している関係で、前夜の歓迎パーティにもセックスワーカーの支援者の方たちが来場されていました。
朝、ホテルを出て市内観光に向かう時、ホー先生に「レスリーさんたちは、今日の午後、セックスワーカーの人たちと会うことになっています。三橋さんは、セックスワークの問題に興味がありますか?
(興味がなければ)故宮博物院でゆっくりしていてもいいですよ」と尋ねられました。私は即座に「サイドワークとして、日本の赤線(1945〜1958年の指定売春地域)について調べています。ですから、とても関心があります。ぜひご一緒したいです」とお返事しました。故宮博物院は、その気になればいつか再訪する機会もあるでしょうけど、台湾のセックスワークの当事者の方のお話を聞くチャンスは、なかなかありませんから。
2 旧「春鳳楼茶館」見学
ダウンタウンの帰綏街のメインストリートから小さな路地を入った古びたビルに到着したのは、14時30分を過ぎていました。ここは「春鳳楼茶館」として、数年前まで実際に営業していた娼館で、現在は「春夫人四物醋工坊」と名乗ってお酢の製造販売をしていますが。しかし、営業的にはなかなかたいへんなようで、入場料を取って娼館の実態を示す資料館になっています。
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「旧春鳳楼茶館外看板」
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「旧春鳳楼茶館内看板」
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「旧春鳳楼茶館」の入口 」
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「お酢の製造販売をしている」
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「 旧春鳳楼茶館入口で」
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娼館のホールに相当する部屋で、デリバリーのランチボックスを食べながら、元セックスワーカーの方と支援運動の方のお話をうかがいました。お話をうかがって、この売春禁止法が、セックスワーカーの働く権利を無視し、廃業後の生活保障を軽視して行われたこと、女性の人権やモラルを重視する進歩的とされる政治勢力によって推進されたことなど、1950年代の日本の「廃娼運動」にとても類似していることに気が付きました。
お話の後、保存公開されている営業に使われていた一室を見学しました。まず目に入ったのは、壁に立て掛けられたピンクのベッドカバーが掛けられた営業用のベッドでした。ベッドを平らに置くと、1人分の通路が残る程の細長い小さな部屋です。
壁面には、そこで働いていた女性の写真が、反時計回りに、少女時代から現役時代、そして現在の姿までパネル展示されています。少女時代の写真の初々しさ、台北北郊の歓楽地、新北投温泉で日本人観光客の相手をして稼いでいた全盛期の魅力的な姿もさることながら、失礼ながら実年齢よりも老けてみえる現在の写真が、セックスワークという仕事の苛酷さと重みを語っているようで印象的でした。
隣室との仕切りは、天井に近い部分が透けていて完全な密室にならないようになっています。客とトラブルになった時、助けを求める娼婦の声が外に届くようにした工夫です。 生々しいリアリティに、私は言葉もありませんでした。
短い廊下の奥に「保健室」という表示がある部屋がありました。日本の娼館でいう「洗浄室」に相当する部屋だと気が付いたので、確認すると「そうです」という答えでした。現在は物置として使っているとのことで、残念ながら内部は見せてもらえませんでした。念のため解説すると、「洗浄室」とは、娼婦がセックスワークの後、性病予防・妊娠予防のために局部を洗うための部屋で、一般的にはホースの先に洗浄用のノズルが付いた簡易シャワーのような設備がありました。
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「娼婦の部屋で」
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「働いていた女性の写真を展示」
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「保健室という部屋 」
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「支援運動の方たちと記念撮影」
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3 帰綏街東路、旧娼館地区を歩く
複雑な思いで、「春鳳楼茶館」を後にして、支援運動事務所を目指して、帰綏街を東に向かいました。帰綏街東段に入ると、道が急に狭くなり、よりダウンタウンの風情が増してきます。そして、丸窓やアーチを多用したアールヌーボー様式の建物が現れます。見上げると、2階の窓が小さく仕切られていることが見て取れます。
丸窓やアーチなど曲線を多用するアールヌーボー様式の建物は、日本統治時代の1930年前後に建てられたものと思われます。また、窓が小さく仕切られているのは、娼婦の小さな個室が並んでいたためで、娼館建築の外見的な特徴のひとつです。
アーチの下部を毒々しい赤いペンキで塗った建物は、つい最近まで娼館として営業していた建物だそうです。また、帰綏街東段を抜けた角地の現在ショッピングセンターになっている建物も、日本統治時代の娼館の跡というお話でした。
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「帰綏街旧娼館地区で」
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「小さく仕切られた部屋の窓」
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「 旧娼館地区の入口」
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「日本時代からの娼館」
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「丸窓等アールヌーボー様式」
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「帰綏街旧娼館地区で 」
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「日本時代に娼館だった建物」
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現在の日本には、1920〜1930年代に建てられた洋風の娼館は、ほんの僅かしか残っていないと思われます。戦前の東京の公認遊郭だった吉原と洲崎は東京空襲で全滅していますから、少なくとも東京にはありません。そうした意味で「貴重な遺構だなぁ」と思いながら歩いている内に、重要なことに気が付きました。
日本が台湾に作り、1945年8月の敗戦で残していったものは、娼館の建物だけではなく、買売春の制度、公娼制度そのものを残していったのではないかと言うことです。今まで「ライセンス」という英語で聞いていたので、うかつにも気が付かなかったのですが、「ライセンス」を「鑑札」という言葉に置き換えるならば、つい最近まで続いていた台北市の公娼ライセンス制は、戦前の日本の娼妓鑑札制の継続形態なのではないかということです。
台湾の公娼制度の歴史は、日清戦争の後、日本の統治下に入った1895年の直後の1896〜98年に貸座敷・娼妓の取締規則が公布され、これらの法令とともに日本の公娼制度(買売春管理システム)が台湾に移入されました。そして、1906年の民政長官通達「貸座敷及娼妓取締規則標準」によって全島的に統一された制度が確立され、ほぼそのまま1945年8月の日本統治終了まで継続します。
ちなみに、台湾総督府の統計によれば、1931(昭和6)年には台湾全島で、貸座敷業者124人(日本人92、台湾人16、朝鮮人16)、娼妓1149人(日本人924、台湾人119、朝鮮人126)と記録されています。
戦後の制度の変遷については、まだ調べがついていませんが、最近まで続いた台湾の公娼ライセンス制が、日本の統治時代の「遺産」だとするならば、その廃止、つまり、廃娼運動の様相が似てくるのも、ある意味、当然なのかもしれません。
支援運動事務所にお邪魔して、反対闘争の様子を記録したビデオを見せていただきました。セックスワーカーの人たちが、仕事と生活を守るため、懸命に闘ったことがよくわかります。そして、進歩的なモラリストとされる人たちが、彼女たちの要求を顧みようとしなかったことも。
「廃娼」を推進した進歩的なモラリストたちは、はたして、セックワーカーの人たちの言葉をちゃんと聞き、1対1の人間として向き合うことをしたのでしょうか?
ビデオを見る限りとてもそうは思えません。対等な視線で向き合っていたら、これほど真摯な反対運動を黙殺できるはずはありません。
夕暮れが迫り、ビルの軒下の看板に灯がともり始めました。さっきから気づいていたのですが、この地区の看板には「按摩」の文字が異様に目立ちます。しかもその「按摩」の看板は、ピンクや赤、紫に彩られ、やたらと色っぽいのです。それを見ている内に、また遅まきながら気が付きました。この「按摩」は、もしかして擬装転業なのかも・・・。
日本でも、売春防止法施行後、買売春業がマッサージ業に擬装転業したケースは多く、パンパン(=娼婦)とアンマを合成した「パンマ」という言葉が生まれました。それと、まったく同じ様相がここにはあるのではないかということです。
2001年3月の公娼制廃止(非合法化)の時、約40名のセックスワーカーが仕事を続けることを希望したそうです。とは言え、セックスワークは犯罪として取締の対象となったわけで、今までのように堂々と看板を掲げるわけにはいきません。そこで登場したのがピンク色の「按摩」の看板だったのではないでしょうか。
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「按摩の看板が目立つ」
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4 セックスワーカー問題を考える
1950年代の日本の「廃娼運動」にしても、1990年代後半の台北市のライセンス取り上げにしても、単純な倫理観から買売春反対を叫び、それを法的に禁止するだけでは、買売春はアンダーグラウンド化してしまい、セックスワーカーの生活と存在をより抑圧してしまう結果を招くだけなのです。
買売春というものは、そこに人身売買や管理・強制がある場合はもちろん、経済的搾取や社会的抑圧をシステムとして伴う限り、それは女性の人権を侵害するものであって、許されるものではないと私は考えます。しかし、個々のセックスワーカー(女性)が主体となり、客(男性)と対等な立場で、性的サービスと金銭の交換を行うような場合、その行為に根本的な問題性があるとは、私には思えません。ですから、すべてのセックスワークを社会悪、モラルに反する罪悪と一方的に決めつけて禁止することには、私は反対です。
東洋一の大歓楽街である東京新宿歌舞伎町で「女」になり、女装スナックのお手伝いホステスとして6年間にわたってネオンきらめく夜の街に親しんだ私にとって、買売春の世界はけっして遠い世界ではありませんでした。
店が終わった明け方、ママに連れられ飲みにいく居酒屋では、デリバリー(派遣形態のセックスワーク)の女の子のグループとよく隣り合わせになりました。後日、その内の1人の娘と喫茶店でたまたま隣合わせ、彼女の客待ちの間にいろいろおしゃべりをしたこともありました。その時、彼女がつぶやいた「あたしたちって、居ても居ない(アンダーグラウンドな)存在なんですよ」という言葉は今でも心に残っています。
また、夜の街で「お姐ちゃん、いくら?」と声をかけられたことも何度かありました。初めて会った男性とホテルに行った後、「このくらいでいいかな」と3万円を渡されかけ、「仕事でしてるんじゃないですから」と断ったのに、後で気がついたら、ショルダーバッグの外ポケットに1万円札が2枚入っていたこともありました。
つまり、ある種の男性の目からすれば、セックスワーカーの女の子も、私も、向こう側の人間(買う対象)であり、逆にセックスワーカーの女性たちにしてみると、私はほとんど同じ側の人間(売る側)だったのです。
実は、旧「春鳳楼茶館」で、元セックスワーカーの方とお話していた時、「あなたは美人だから(現役時代は)売れっ子だったでしょう」と言われました。ホー先生が私のことを彼女たちにどう説明していたのか、わかりませんが、ある程度は、同じ側の(にいた)人間と認識しての言葉(お世辞)だったと思います。
私が買売春の世界に足を踏み入れなかったのは、単に私が性的快楽主義者で、仕事としてのセックスよりも、プレイとしてのセックスを好んだからに過ぎません。
私が、買売春の問題に関心をもつのは、それが私のすぐ側にあったものだからであり、夜の世界ですれ違ったセックスワーカーたちへの、ほのかな共感からなのです。
いずれにしても、わずかな時間の見学でしたが、セックスワーカーたちの生きる権利、働く権利をどう守っていくべきなのか、問題の複雑さと生々しい現実に大きな衝撃を受けた一日でした。
参考文献:
UNIDOS「台北市(台湾)の廃娼と日本の売防法」(『インパクション』110号 1998年10月)
水島希「台北市公娼たちの闘いは続く」(『インパクション』123号 2001年2月号)
藤永壯「植民地台湾における朝鮮人接客業と「慰安婦」の動員――統計値から見た覚え書き――」
(桂川光正ほか『近代社会と売春問題』大阪産業大学産業研究所、2001年3月)
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