日本女装昔話
第15回】  女装芸者の活躍(その1) (1960年代)
女装芸者という存在をご存じでしょうか?。
 
かって日本各地の花街には、お座敷で様々な芸を披露する幇間(たいこもち)という男性芸能者がいました。彼らを「男芸者」と呼ぶことがありましたが、これから紹介しようとするのは、それとは異なり、男性でありながら、女性の芸者と同じような姿で、お座敷で芸を披露し接客をする人たちです。
 
芸者という身分は、戸籍上の女性でなければなれないものだったので(戦前は鑑札制、戦後は検番登録制)、女装芸者の多くは非公認の存在でしたが、言わば芸者もどきのこの手の人たちは、数こそ少ないものの日本各地の温泉地などにいたらしいのです。今回と次回は、今は忘れ去られつつある女装芸者の足跡をたどってみたいと思います。
 
昭和の初め頃、栃木県の塩原温泉に「おいらん清ちゃん」という有名人がいました。腕の良い髪結い職人である清ちゃんは、戸籍上は立派な男でありながら、日常の身なりも性格も女そのもので、女装には厳しい社会環境だった時期にもかかわらず、地域の人にも「女」として受け入れられていました。清ちゃんのことが新聞で報道されると、塩原温泉に遊ぶ客の中には「清ちゃんを呼んで」と頼む人も多くなりました。すると清ちゃんは、濃化粧に髪を結い上げた芸者姿で座敷に上がり、三味線と踊りを披露し、チップをもらっていました。写真を見ても並の女よりはるかに美貌だったようで、その人気のほどは、昭和4年(1929)1月1日(日付に注目)の読売新聞に清ちゃんの写真入りインタビュー記事が掲載されていることからもしのばれます。
 
清ちゃんが人気になる少し前、大正14年(1925)7月29日の読売新聞は、茨城県の平磯(現:那珂湊市)の大漁節の名手、女装芸者「兼ちゃん」を紹介しています。兼ちゃんは、大酒飲みだったようですが、喉の良さに加えての美貌、「男が大好き」という媚態で人気者でした。

戦後になると女装芸者があちこちの温泉地で活躍し始めます。
栃木県の鬼怒川温泉には、昭和34年(1959)頃、「きぬ栄」という若くて美人、踊りも三味線も巧みな売り出し中の人気芸者がいました。彼女が市左衛門という立派な名前をもつ男性だったことが『週刊文春』の報道を通じて明らかになったのは、身請けされた旦那に結婚を迫られ困った彼女が故郷に逃げ帰ってからのことでした。つまり、彼女は置屋の女将の計らいで、女性の芸者として登録されていたのです。(詳しくは「日本女装昔話 番外編1 女装芸者『市ちゃん』」を参照ください)

静岡県の伊東温泉には、昭和39年(1964)頃、『アサヒ芸能』などで紹介されて有名になった女装芸者チャコがいました。チャコは藤間流の日舞の名取で、修行を積んだ踊りの基礎を生かしたお座敷ストリップ芸が得意業。おまけに歌も歌えて、女の芸者より色っぽいということで、花代(一座敷のギャラ)が一般の芸者の数倍という高値にもかかわらず、引っ張りだこの盛況でした。
 
同じころ伊東温泉には、もう一人の女装芸者がいました。温泉街の「リオ」というキャバレーで女装ホステスしていたサトコです。彼女も呼び出しがあると、酒席に上がり、踊りを披露していました。 
 
やはり同じころ、滋賀県雄琴温泉に「よし幸」という女装芸者がいました。芝居の女形の前歴を生かした踊りで売れっ子でした。しかし、彼女の名が全国に知られるようになったのは、女性への性転換手術を受けことからでした。しかも半陰陽(インターセックス)だった彼女は、1966年5月に戸籍も男性から女性へ変更し、複数の週刊誌が「性転換芸者」として大きく取り上げました。
 
このように1960年代までは日本の各地で女装芸者が活躍し、地域社会の中でそれなりに受け入れられていたのです。

なお、本稿は、鎌田意好「異装心理と女装者列伝」(『風俗奇譚』1965年8月号)などを参照しました。
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「資料15-1」


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「資料15-3」


「資料15-4」


「資料15-5」
資料15-1  塩原温泉の清ちゃん(右) (『風俗奇譚』1965年8月号)
資料15-2 鬼怒川温泉のきぬ栄(市ちゃん) (『風俗奇譚』1967年1月臨時増刊号)
資料15-3 伊東温泉のチャコ (『風俗奇譚』1964年1月臨時増刊号)
資料15-4 伊東温泉のサト子 (『風俗奇譚』1964年1月臨時増刊号)
資料15-5 雄琴温泉のよし幸 (『アサヒ芸能』1968年3月17日号)