日本女装昔話
第14回】  警視総監を殴った男娼「おきよ」 (1940年代)
「この『人形のお時』さんって、警視総監を殴った人よね」
 
ここは新宿歌舞伎町区役所通り、老舗の女装スナック『ジュネ』。前号のこのコーナーを読んでいた静香姐さんが言いました。「それが違うんみたいなんです。殴ったのは『おきよ』さんって人らしいです」と私。「あら、そうなの。あたしはずっと『ときよ(時代)』って人だって聞いてたわ」
 
実は私もそう聞いてました。どうもいつの間にか伝承と事実が食い違ってしまったようなのです。上野の男娼世界については、この連載の第1回で取り上げましたけど、事実関係に誤りがあったり不十分な点が多かったので、もう一度詳しく述べてみようと思います。
 
東京の中心部のほとんどがアメリカ軍の空襲で焼け野原となった戦後の混乱期に、東京の北の玄関上野に男娼(女装のセックスワーカー)たちが姿を現します。
 
その数は、全盛期の1947〜8年(昭和22〜23)には50人を越えるほどになりました。娘風や若奥様風の身ごしらえ(当時はほとんどが和装)で、山下(西郷さんの銅像の下あたり)や池の端(不忍池の畔)に立って、道行く男を誘い、上野の山の暗がりで性的サービスを行っていました。
 
そんな上野(ノガミ)の男娼の存在を全国的に名高くしたのが、1948年(昭和23)11月22日夜に起こった「警視総監殴打事件」でした。同夜、上野の山の「狩り込み」(街娼・男娼・浮浪児などの「保護」)を視察中の田中栄一警視総監(後に衆議院議員)一行が男娼のグループと遭遇しました。総監に随行していた新聞カメラマンがフラッシュを光らせて男娼たちを撮影し始めると、怒った男娼たちがカメラマンにつかみかかり大混乱になりました。殴打事件はその最中に起こったのです。
警視総監を殴り、一躍「英雄」視されることになったのは当時32歳の「おきよ」という男娼でした。彼女は事件の7年後にこう語っています。「なんや知らんけど大勢の男たちがやって来て、いきなりカメラマンがフラッシュを光らせた。それがアタマにきたんでいちばん偉そうなのを殴ったんよ」
(広岡敬一『戦後風俗大系 わが女神たち』2000年4月 朝日出版社)
 
このように事件は偶発的なものでしたが、警察にも面子があります。当夜、暴行と公務執行妨害で彼女を含めた5人の男娼が逮捕されますが、「警視総監を殴った男娼」として自他共に認める人物はこの「おきよ」さん以外にありません。
 
それでは、なぜ「おきよ」が「ときよ(おとき)」に誤り伝えられたのでしょうか? 「鉄拳のおきよ」として有名になった彼女は、男娼生活から足を洗い1952年(昭和27)に「おきよ」というバーを浅草と吉原(台東区千束4丁目)の中程に開店します。店には吉行淳之介など軟派系の文化人が出入りし、またハリウッド女優エヴァ・ガードナーが来店して、乱痴気騒ぎの末に脱いだショーツを置き忘れていったり、昭和30年代には大いに繁盛しました。
 
実は、この店の看板娘が美人男娼として有名だった「人形のお時」こと「ときよ」さんだったのです。「人形の・・・」のいわれは、「人形のように美しい」のは確かであるにしろ、実は男娼時代「人形のようにただ立ってるだけで口をきかない」ことによるのでした。彼女はとても人を殴れるような人柄ではなかったようです。
 
かたや武勇伝で、こなた美貌で世に知られた二人の男娼、それが「おきよ」と「ときよ」という間違えやすい名前を持ち、しかも同じ店の姐さんと妹分の関係にあったことが、語り伝えを混乱させた原因だったのです。
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「資料14-1」


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「資料14-3」


「資料14-4」


「資料14-5」
資料14-1  「殴打事件」を報道した新聞 (毎日新聞 1947年11月23日号)
資料14-2 毎日新聞掲載の写真の拡大
資料14-3 鉄拳の」おきよ姐さん(1955年頃) (広岡敬一『戦後風俗大系 わが女神たち』2000年4月 朝日出版社)
資料14-4 「人形の」お時さん (『100万人のよる』1961年4月号 季節風書房)
資料14-5 「おきよ」のメンバー 中央が「おきよ」さん、その右「ときよ」さん (『100万人のよる』1961年4月号 季節風書房)