日本女装昔話
第16回】  女装芸者の活躍(その2) (1970年代〜現代)
前号に引き続き、男性でありながら、女性の芸者と同じような姿で、お座敷で芸を披露し接客をする女装芸者の足跡をたどります。
 
伊東温泉の「チャコ」や雄琴温泉の「よし幸」に少し遅れて、静岡県熱海温泉に「お雪」という女装芸者がいました。ゲイボーイ出身で、1969(昭和44)に熱海の芸者置屋の看板を買ったのですが、地元の幇間や芸者衆から「男が芸者になるなんて」という反対の声があがりました。しかし、猿若流の踊りの名手である彼女の芸と熱意が実って、熱海料芸組合の承認が得られ、芸者として検番登録されることになりました。芸者2人を抱える置屋の女将でありながら自らもお座敷に出て稼ぎ、デビィ・スカルノ夫人など芸能人、著名人の贔屓客も多かったようです。
 
このように1970年代までは日本の各地で女装芸者が活躍し、地域社会でそれなりに受け入れられ、遊興客の人気を集めていたことがわかります。
 
ところで、MTFの(男性から女性への)トランスジェンダーの基本は、女性の形態を模倣することにあります。その模倣は外的形態(ファッション)だけではなく職業形態をも模倣します。例えば、娼婦に対する男娼、ホステスに対するゲイボーイ、女性ダンサーに対する女装ダンサーという具合です。つまり、MTFトランスジェンダーの有り様は、一種のコピー文化であるとも言えるのです。ですから、芸者が輝いていた時代に、そのコピーとしての女装芸者が存在したのも、当然なのかもしれません。
 
私が中央大学の2000年度の講義で女装芸者についてちょっと話をしたところ、山口県の湯田温泉出身の学生が、「母に聞いた話ですが、湯田にもそういう人がいたそうです」とレポートに書いてくれました。絶対数こそ少ないものの、けっこうあちこちに女装芸者はいたのではないでしょうか。
現在、女装芸者は東京向島の「真紗緒」(芸者で検番登録)ただ一人になってしまったと思われます。真紗緒姐さんの場合はゲイバーの経営者から芸者好きが昂じての転身でしたが、やはり幇間の強い反対があり、1987年(昭和62)に芸者として認められるまでには紆余曲折があったようですが、今ではなかなかの人気でお座敷を勤めていらっしゃいます。
 
日舞と長唄をよくする真紗緒姐さんを含めて女装芸者たちの特色は、踊りにしろ唄にしろ、客を引き付けるに十分なだけの技量を持っていたということです。伊東温泉の「チャコ」のように、それに加えて本物の女性の芸者では披露をはばかるような芸(ストリップ)を持っている例もありました。
 
女装芸者であるという話題性・希少性、はっきり言えばゲテモノ性が彼女たちの人気の起点になっていることは否定できませんが、それだけでは人気は継続できなかったでしょう。やはり、お座敷というミニ興行的な場を支えるだけの芸能が必要だったのです。
 
女装芸者は、性別越境者の芸能・飲食接客業という伝統的な職能を示すものとして、きわめて興味深い存在です。江戸時代の陰間の伝統を受け継いだものとも考えられますし、現代のニューハーフの有り様の原像とも評価できます。また性別越境者と興行という視点から見てもゲイバーのショーの源流のひとつとして考えられるかもしれません。
 
明治〜昭和期にどれほどの女装芸者が存在したのか、その実態を解明することは今となっては難しいのが残念です。女装芸者について、なにかご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひご教示ください。
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「資料16-1」


「資料16-2」


「資料16-3」
資料16-1  熱海の「お雪」 (『女性自身』1975年10月30日号)
資料16-2 向島の「真紗緒」 (『週刊大衆』1987年2月9日号)
資料16-3 真紗緒姐さんと私。「陽気な下町のおばちゃん」という印象でした。 (2001年10月26日「向島踊り」で)