日本女装昔話
第13回】  女装者愛好男性の典型 西塔哲 (1960年代)
「これ、僕が撮ったんですよ」「富貴クラブ」の元男性会員M氏は懐かしそうに写真(前回掲載の夢野すみれさんの写真)を指さしました。M氏は「富貴クラブ」創設間もない頃から約20年間在籍し、最初の数年は女装したものの、大部分は男性会員として過ごした方です。60代半ばの現在も週末は愛人(女装者)と過ごすという氏のお話を聞きながら、私は女装世界における男性の役割を考えていました。
 
女装の世界は、もちろん女装者が主役の世界ですが、女装者だけの世界ではありません。女装者好きの男性(非女装男性)がもう一つの柱として存在し、女装者と女装者愛好男性の二本柱で成立している世界なのです。その点では、東京のエリザベス会館のように女装者愛好男性を完全排除してしまった女装クラブの方が特異なのです。
 
身体的性別を絶対視する考え方からは理解しにくいことなのですが、こうした女装者愛好男性の意識は、ほとんどの場合、ゲイ(男性同性愛)ではなく、ヘテロ(異性愛)なのです。彼らは「女」として女装者を愛してるのであって、男同士の愛を求めているのではないのです。
 
こうした女装者愛好男性は、外国ではトラニイ・チェイサー(Tranny-Chaser)と呼ばれています。「トラニー」とは、トランスセクシシャル(TS)、トランスジェンダー(TG)、トランスベスタイト(TV)の省略形。「チェイサー」とは、それを追いかける人。つまり、直訳すれば「女装者の追っかけ」、日本の俗語で言えば「かま好き」でしょう。しかし、彼らの実態や意識をきちんと調査・分析した研究はほとんどありません(数少ない研究レポートとして黒柳俊恭「異性装しない異性装症者−二次的異性装症者のセクシュアリティ−」『imago』1990年2月 青土社)。
 
M氏が「会長さんは絶対だったからね」と畏敬の念を込めて語る「富貴クラブ」会長・西塔哲こそは、そうした女装者愛好男性の典型と言える人物でした。明治時代の末に東京浅草に生まれた彼は、子供の頃から芝居小屋や映画館に出入りし、美しい女形に不思議な興奮と興味を感じます。吉原遊郭で女遊びを知ったものの、大学在学中(昭和初期)に旅芝居一座の女形「蝶之助」と交際し、女装者好きの性向に火がつきます。
 
どこどこに女装者がいるらしいと聞くと、労を厭わず捜し出し会いにいく精力振りで、官僚(逓信省)として地方に出張する機会をとらえては、塩原温泉の女装芸者「おいらん清ちゃん」や大阪の男娼らとの交際を重ねます。責め絵師で女装者愛好者でもあった伊藤晴雨とも親しく交際したのもこの時期のようです。
 
太平洋戦戦争中はシンガポールで軍務につき、戦後の男娼全盛時代には、運輸省陸運局に勤務しながら上野・新橋・新宿などの男娼のお姐さんたちと交際を続け、当時、美人男娼として有名だった「人形のお時」とは熱海へ温泉旅行を楽しんでいます。
 
1955年(昭和30)、滋賀雄二氏が結成した日本最初のアマチュア女装同好会「演劇研究会」に参加、同会解散後の1959年(昭和34)にアマチュア女装の秘密結社「富貴クラブ」を結成して会長となりました。その後、鎌田意好(かまだいすき)の筆名で「異装心理と異装者列伝」シリーズ(『風俗奇譚』連載)、「女装群像」シリーズ(『くいーん』連載)などの実録ものや、『香炉変』(『風俗奇譚』連載)などの女装小説を多数執筆しました。
 
1989年(平成元)頃に逝去するまで女装者愛好一筋50年、「富貴クラブ」会長として君臨すること30年。日本のアマチュア女装文化の形成に大きな役割を果たし、女装者好きという自らの性向に忠実に生きた人生は、まさに女装者愛好男性の鏡と言えるでしょう。
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「資料13-1」


「資料13-2」


「資料13-3」
資料13-1  西塔氏が交際した美人男娼「人形のお時」。(『風俗奇譚』1965年7月号)
資料13-2 「富貴クラブ」の女装会員に囲まれてご満悦の西塔氏(『風俗奇譚』1963年4月臨時増刊号)
資料13-3 晩年の西塔氏。鎌倉旅行のスナップ。両側の「女性」はもちろん女装者(『くいーん』29号 1985年4月)