【第49回】祝・創刊50号!の思い出話

2006. 1

レインボー・スカイ・アソシエーション・タイ(RSAT)のブースの「看板娘」さんと

レインボー・スカイ・
アソシエーション・タイ
(RSAT)のブースの看板娘さんと

前号でも少し触れましたが、2005年7月7〜11日の5日間、第1回アジア・クィア・スタディーズ国際学会と、ニューヨーク市立大学レズビアン/ゲイ研究センター主の国際リソース・ネットワ催ーク(IRN)会議にゲストとして招かれ、タイのバンコク を訪れてきました。

学会は、アジアだけでなく世界各国から550人以上が参加し、3日間にわたって250本もの研究報告が行われる大規模なものでした。ゲイ、レズビアンに比べれば数は少ないもののトランスジェンダーの分科会も4セクションあり、20本ほどの報告がありました。
  
ただ残念なことは、ゲイ、レズビアンをテーマにしている研究者は、自身が当事者性をもっている方が多いのに対し、研究者自身トランスジェンダーという方を見かけなかったことです。
おぼつかない英語能力で報告を聞いていて改めて感じたのは、トランスジェンダーは、世界のどの地域にも伝統的に存在し、社会の中で固有の役割を果たしていたということでした。アジアに限っても、従来から存在が知られていたオマーン、インド、タイ、インドネシア、フィリピン、中国、韓国、日本に加えて、イラン、パキスタン、ラオス、カンボジア、マレーシアなどにも存在する(した)ことがわかりました。
 
私は、閉会直前の全体会(クロージング・セッション)で、現代日本のトランスジェンダーの実情について、世界の研究者の前で報告してきました。反応はとても好意

アジア・クィア・スタディーズ国際学会でスピーチする私。

アジア・クィア・スタディーズ国際学会で
スピーチする私

的で、学会に引き続いて開催されたIRN会議の冒頭の総括報告で「欧米とは異 なるアジア世界特有のLBGT(レズビアン/ゲイ/バイセクシュアル/トランスジェンダー)像を提示することが、今後の課題」という私のスピーチの一節が引用され、とてもうれしく励みになりました。
 
初めてのタイ訪問だったのに、ずっとホテルに缶詰め状態で、昼間はどこも観光できませんでしたが、夜の街には2晩ほど繰り出しました。有名なスリウォン通りのゲイタウ ンも覗いてきましたが、楽しかったのは、やはりナイトショー。著名なドラァグ・クイーンPhee Dayの一座で、ソロはアメリカ流のドラァグ・クイーン・パフォーマンスですが、群舞には日本のニューハーフ・ショーの影響が明らかに感じられ、レベルの高い内容でした。
 
ショーのラスト、ママのマイク・パフォーマンスの時、なぜか私が舞台に呼び上げられるというハプニング。「日本の歌をいっしょに唄おう」と言われて、「浪花節だよ人生は」(どういう選曲?)を合唱させられるはめに。握手をして舞台を降りようとしたら「もう一曲」と引き留められ、何がかかるのか不安な気持ちで待っていると、ちあ

ドラァグ・クイーン・ショーの舞台で唄う私。右がバンコクの有名ドラァグ・クイーン、Phee Day 。

ドラァグ・クイーン・ショーの舞台で唄う私

きなおみの「喝采」のイントロが・・・。「よかった、これなら持ち歌だ」と唄おうと思っ たら、マイクが入ってません。「そうだ、ドラァグ・クイーンは口パクなんだ」と思い出し、適当に口真似したら、会場、大喝采・・・・。
 
翌朝、学会のコーディネーター元締め)のオーストラリアの教授に「昼も夜も舞台に立ったのは順子さんだけです。大活躍ですね」と冷やかされてしまいましたが、バンコクの夜の良い思い出になりました。
 
 
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ところで、この「フェイクレディのひとりごと」、連載50回を迎えることができました。まさかこんなに長く続くとは思いもしなかったことで、これも読者の皆様のお陰と、心から感謝しています。
 
連載第1回(1995年7月号)の内容は、新宿のプレイガール順子の一夜を記したものでした。当時の文章を恥ずかしさを我慢して読みかえしてみると、男から男への夜の蝶、まさに私の「女」としての青春時代の真っ盛りで、今の私がなくしてしまった原色のキラキラした雰囲気が感じられます。
 
現在、私は、お茶の水女子大学の講師(非常勤)として、80人ほどの才媛を前に「トランスジェンダー論」を講義しています。あの頃は、まさか自分が女姿で、しかも国立大学の教壇に立つことになるとは、夢にも思いませんでした。連載を続けている間に流れた10年余の歳月を思うと、しみじみ感慨深いものがあります。

「女」としてあとどれだけ活動できるか、どこまで行けるか、自分でもまったくわかりません。でも、ここまで来たら、行けるところまで行ってみようと思います。どうかもうしばらく順子にお付き合いくださりませ。