【第42回】国立機関の研究員に!

2004. 02

京都の西、平安時代には鬼の住処だったという大江山の山腹に「国際日本文化研究センター(日文研)」があります。建物の形(南欧の修道院風)と立地から、うっかりするとラブホテルと間違えそうな怪しい雰囲気もありますけど、日本文化の研究と国際的な学術交流の場として設置された歴とした国立(文部科学省管轄)の研究機関です。
 
実は私、2003年4月から、そこの共同研究員ということになりました。非常勤です
けど山折哲雄所長のお名前の入った辞令書をいただいた正規の身分です。
 
なんでこんなことになったかというと、3年ほどまえから参加していた京都の「関西性慾研究会」が、代表である日文研の井上章一先生の教授昇任にともなって、正規の共同研究課題「性欲の文化史」に衣替えしたことがきっかけでした。
 
そもそも「性欲の文化史」なんていう研究テーマをお堅い文部科学省が認めたこと自体が画期的

国際日本文化研究センターの前で(2003年9月)

「国際日本文化研究センターの前で」

なのですけど、研究会の主要メンバーを共同研究員として申請した際に「三橋順子」も紛れこませていただいたのです。
 
認められるかどうか半信半疑でしたけど、めでたく国立の研究機関では(たぶん)初のトランスジェンダーの研究員誕生ということになりました。5月に日文研の研究会に初めて行ったときの教職員の方の反応、井上先生のお話ではかなりのインパクトだったようです(おまけに着物姿だし)。
 
実際に研究員として京都に行くのは年に3〜4回、1回に2〜3日くらいです。でも、往復の旅費と宿泊費を公費で出していただけるのと資料のコピーが自由なのは貧乏な私には大助かりです。で、何をしてるかというと、今年度の私のテーマは
「明治〜昭和前期の異性装(女装・男装)の研究」ということで、明治7年(1874)から昭和11年(1936)までの『読売新聞』CD−ROMを検索して、関係資料をせっせと収集・分析しています。
 
「そんな昔に女装や男装の記事なんてあるの?」と思う方も多いでしょう。でも、実にいろいろな記事が見つかるのです。その数、なんと230余件!。現在ほど新聞が厚くなかった時代(明治期には2〜4頁)ですから、比率的には現代以上の量だと思います。
 
たとえば、明治17年に女装で育った男性と男性で育った女性の「逆転結婚」が報じられたり、明治40年に海外(朝鮮のピョンヤン)にまで進出した女装芸者がいたり、塩原温泉の名物、女装髪結の「おいらん清ちゃん」の写真入りインタビューが昭和4年のなんと元旦の紙面を飾っていたり、昭和8〜11年頃が男装の大ブームだったり、おもしろい事実が次から次へと出てきます。日本人が昔から女装や男装に興味

京都北野天満宮の近くで

「京都北野天満宮の近くで」

津々だったことがよくわかりました。研究成果は、来年度中には論文にまとめようと思っています。
 
私がこんなことを調べているのは純粋に自分の興味からなのですけど、そんな怪しげな研究者を国立の研究機関が認めてくれたのは、それだけ世の中の性別越境への理解が進んだからでしょう。偏見と差別の中で少しずつ社会的理解の基盤を作ってきてくれた性別越境の先輩たちに感謝したいと思います。
 
日文研でのハードな調査・研究の数日間の後、関西の着物友達(純女)と大好きな京都の街を散策する時、人生の充実と幸せをつくづく感じる私です。