【第36回】
多彩な女を「装う」ことの楽しさ
2002. 08
夜の銀座、ある文化フォーラムの後のパーティでのことです。「銀座の駅で僕の前を着物姿の方が歩いてて『おっ、銀座のママのご出勤だ。やっぱり着物の女性はいいよなぁ』と思ってたら、同じ会場に入って行くんで、驚いたんですよ。貴女だっ
たんですね」と、ある紳士に話しかけられました。
「がっかりさせて失礼いたしました」と応じながら、あたしは内心「うまくいったわ!」と喜んでました。実は、夕方7時の銀座という状況を考えて、その日は、白と紺の片身替わりの辻が花の訪問着、銀地金沙の帯を銀座結びにという銀座のママさん風の拵えで出掛けたからなのです。
また別の日、浅草と向島を結ぶ吾妻橋を渡って墨堤(隅田川の向島岸)を歩いていたら、やたらと道を尋ねられました。地元の人だと思われたのでしょう。その日のあたしは、薄茶の地に紺の四辺形模様の銘仙の着物に黒地に銀鱗(三角形)の帯をゆったり角出しに結び、足元は萌黄の鼻緒の塗りの下駄という粋な拵えで、向島のお姐さん(芸者さん)が、昼間ちょっと近場にお出掛けというイメージに装ってました。
「「ハイカラさんが通る」のうさぎさん」
どちらも、その日、出掛ける場(場所・時間)の状況に合わせてイメージを作るというあたしの操作に、周囲の人が「引っ掛かった」ケースです。「そんなことして何がおもしろいんだ?」まじめで頭の固い方はそう思われるでしょう。でも、おもしろいんですよ。フェイク銀座ママ、フェイク向島姐さん、これこそフェイクレディ順子の本領発揮なのです。
ところで、SF評論家の小谷真理さんが、最近「コスプレという非日常」という文章の中であたしの女装行為を次のように批評しています。「文脈、つまりコンテクストあっての役割で、彼女が現実世界の女性というカルチュアをサンプリングしてシュミレーションし、しかもそれを写真撮影することによって確認作業をしているように
思う」(『Bien』13号 2002年4月 藝術出版社)
さすがは、かってコスプレーヤーとして名を馳せた小谷さん、鋭い分析です。あたしにとって、女を装うということは、自分の心の性に従って、ありたい自分の姿を表現することです。ただ、あたしの場合、そのありたい自分が平凡なありきたりの女ではなく、自分が習得した「女を作り込む技術」を生かせる個性的で多彩な女だったのです。
こうして、あたしの「イメージ操作の遊び」が始まりました。それは、単なる女装というコスチューム・プレイ(Costume-play)に始まり、ある状況にふさわしい女を作りこむシチュエーション・プレイ(Situation-play)、さらに一人の架空の女の人生の一齣を演じるロール・プレイ(Role-play)へと発展していったのです。
最近のトランス世界では「普通の女」になることが流行のようです。でも、世の中に
「大川の川風を感じながら」
は「普通の女」なんていくらでもいますし、同じ「普通の女」なら子供を生める分、本物の「普通の女」の方が勝ってます。どうせ「女」になるのなら、普通じゃない個性的な魅力のある女になる方が楽しいし、社会的意味もあると、あたしは思います。
今まで「コスプレ」は、トランス世界の中で一番底辺に位置付けられ蔑視されてきました。でも「装う」ことの楽しさの原点として、その意味を見直してみたいと思っています