日本女装昔話
第9回】 歌舞伎女形系の女装料亭「音羽」 (1960年代)
戦前や戦後のある時期まで、一般人に最も身近な女装者といえば、芝居の女形でした。上は正統歌舞伎(旧派)から、新派の各劇団、下は旅回りの一座まで、芝居と言えば女形は付きもの。そうした女形の艶姿に魅せられた女装願望者や女装者愛好の男性は数限りなかったことでしょう。今の若い女装者が、浜崎あゆみのファッションをまねるのと同じように、ある時代までの女装者は、名女形(例えば六世中村歌右衛門とか)の華麗な衣装にあこがれたのでした。
 
そうした女形へのあこがれをかなえてくれたのが、1960年(昭和35)頃、東京青山の青葉町(現・渋谷区神宮前5丁目)に開店した料亭「音羽」でした。経営者は六世尾上菊五郎の弟子だった女形の尾上朝之助。店には本職とアルバイトを交えて、文哉ママを筆頭に20〜26歳の美青年たち12〜13人が在籍。朝之助丈の指導のもと、白塗の本化粧、島田髷に本物の歌舞伎衣装を身にまとった艶やかな芸者姿で接客にあたる純和風のゲイバーでした。
 
アルバイト女形の青年たちは、昼は会社員や学生が多かったようで、ここで和装女装の魅力を覚えて後にアマチュア女装の世界で活躍した方も何人かいました。
ご存知のとおり、江戸時代の歌舞伎の女形は、女装接客業である陰間茶屋と表裏一体の関係にありました。舞台の役に恵まれない女形や舞台に立てない女形志望者は、陰間茶屋で生活の糧を得て、また女形好きの男性(女性)は陰間茶屋の客になることで願望を満たしたのでした。そうした意味で、「音羽」の営業スタイルは、陰間茶屋の復活と言うべきでしょう。
 
歌舞伎女形系の店としては、他にも中村扇雀(扇千景国土交通大臣の夫君)の弟子だった中村扇駒らが役者を廃業して1974年に大阪ミナミに開店した和風ゲイバー「高島田」がありました。
 
しかし、女形や芸者姿にあこがれを感じる女装者や魅力を感じる男性は、年々減っていきます。世の中の女性のファッションも1970年代になると急速に着物離れが進行します。「音羽」も「高島田」も、こうした時代の流れの中に姿を消していきました。
 
今では相当な老舗ゲイバーの大ママクラスでなけれ、芸者姿はしないでしょう。新宿のアマチュア女装世界でも、お正月に艶やかな芸者姿を披露してくださるのは久保島静香姐さん一人だけです。寂しく思うのは私だけでしょうか。
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「資料9-1」


「資料9-2」


「資料9-3」


「資料9-4」
資料9-1  「音羽」の座敷では踊りや寸劇を披露した。これは「忠臣蔵九段目」。
資料9-2 「青山 音羽」の記された暖簾をくぐる。
(いずれも、掲載誌不明 風俗文献資料館所蔵)
資料9-3 文哉ママの艶姿 (『風俗奇譚』1962年8月号)
資料9-4 「高島田」のホステスたち。(『週刊大衆』1974年5月31日号)