日本女装昔話
第5回】 女装秘密結社「富貴クラブ」(2) (1960〜1970年代)
前回は1960年代から80年代に活動したアマチュア女装秘密結社「富貴クラブ」の基本姿勢と秘密管理の様子を取り上げました。今回は「富貴クラブ」の運営システムについて述べてみましょう。
 
従来の女装サークルに比べて「富貴クラブ」が大きく飛躍した点のひとつが、会員が共同で使える女装支度用の部屋「会員の部屋」を設けたことです。1962年(昭和37)に中野区高円寺に会員有志が一室を借りたのが最初らしく、1964年春には会として新宿区柏木2丁目(現在の北新宿2丁目)に「会員の家」を開設しました。その後、1965年夏に新宿区番衆町(現:新宿5丁目)に、1968年2月に新宿区諏訪町(現:西早稲田2丁目)に移り、1970年末頃に神宮外苑の森を見下ろせる東中野(中野区中央2丁目)の12階建てのマンションに落ち着きます。
 
この「中野の部屋」は3DK、その頃の住環境としては、かなり近代的な部屋だったようで、高層ビルを背景にベランダで誇らしげにポーズをとる会員の女装写真が残されています。当時の会員は約80名、会費は月額1000円で、他に「部屋」を利用するたびに3000円を納める決まりだったそうです。コーヒーが120円だった時代ですから決して安価ではありません。「富貴クラブ」の会員が裕福な社会的エリート層中心だったことがうなづけます。
また、「部屋」には堀江オリエさんという女装のプロだった方が常駐していて、女装の指導と部屋の管理を担当してました。単なる着替えの場に止まらず、新人女装者の育成の場という機能を持たせたところにも「富貴クラブ」の先進性がうかがえます。こうした専任の美容指導員を置いた女装施設という発想は、1979年に開店する商業女装クラブ「エリザベス会館」のシステムの原型となり、また80年代以降の新宿の女装スナック「ジュネ」のシステムにも影響を与えたと思われます。
 
「富貴クラブ」のシステムでもうひとつ指摘しておきたいのは、男性会員の存在です。鎌田会長がそうであったように自身は女装しない女装者愛好の男性たちで、人数的には全会員の1割程度と推測されますが、彼らは女装会員の外出時のエスコート役や恋人役として重要な役割を果たしていました。ただ彼らと女装会員の関係の奥深い部分、つまりセクシュアルな関係については、現段階の調査では詳らかにできません。
 
このように「富貴クラブ」の実態を、残されている文献資料だけから明らかにするには限界があり、どうしても当時を知る方の口述資料が必要です。20世紀の女装文化の歴史を正しく記録し未来に伝えるという趣旨をご理解の上で、匿名で結構ですのでインタビューに応じてくださる方がいらっしゃいましたら、ぜひ三橋までご一報ください。
[画像資料] 画像をクリックしていただければ大きな画像が見られます


「資料5-1」


「資料5-2」


「資料5-3」


「資料5-4」
資料5-1  1962年6月7日の「富貴クラブ」の集会風景
資料5-2 「富貴クラブ」会員のポートレート
(いずれも「風俗文献資料館」所蔵写真)
資料5-3 「富貴クラブ」会員のポートレート(内野博子さん) 『風俗奇譚』1966年1月号
資料5-4 「富貴クラブ」会員のポートレート(小山啓子さん) 『風俗奇譚』1966年3月号