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私の手元に紙も黄ばみインクも薄れた謄写版印刷の薄い冊子が9冊ほどあります。表紙には『演劇評論』と記されています。これこそが日本最初のアマチュア女装グループ「演劇研究会」の会誌です。
日本の女装は、江戸時代以来長らく演劇、とりわけ歌舞伎の女形と密接な関係にありました。実際、戦前に思春期を送った女装の先輩たちの手記を読むと、地方芝居の女形の妖艶さに魅了された思い出とか、芝居一座に頼み込んで女形の扮装をさせてもらった話とかがよく出てきます。
1955年(昭和30)10月に滋賀雄二氏を中心に10数名の会員で発足した「演劇研究会」は、そうした流れを受け継いで、演劇、とりわけ女形を研究することを、女装趣味の隠蓑にしたグループでした。その証拠に会誌『演劇評論』は、名称にふさわしい演劇関係の記事はほんの僅かで、ほとんどが女装をテーマにした創作や告白体験記で占められています。また、研究資料の名目で会員の女装写真の頒布を行ったり、「小道具部」と称して鬘や衣装の貸し出しもしていました。
会誌に掲載された体験記などを読むと、ようやく戦後の混乱から抜け出したものの昭和30年代初頭というまだ
閉鎖的な社会状況の中で、先輩たちが苦心を重ねて |
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女装に取り組んでいる姿が浮かび上がってきます。中には北野国太郎「女装ホルモン体験記」(16号)や当時としては画期的な女装水着写真を貼り込んだ加藤美智子「女装日記抄」(23・24合併号)のような先鋭的なものもあります。
さて同会は、二周年を迎えた1957年秋には会員数65名に達しましたが、会費の滞納や会員間の交際問題などから活力を失い、『演劇評論』の刊行も滞り(25号まで確認)、一枚刷りの『演研通信』(6号まで確認)がそれに代わりますが、1958年(昭和33)末には解散したようです。
わずか3年間という短い活動期間でしたが「演劇研究会」の意義は決して小さくありません。それは、主宰の滋賀氏が「われわれが社会人として生活している以上、女装愛好には一定の限界線がある」「割り切った心構えで女装愛好を実行し、その時間や場所の選定に細心の注意をはらわなくてはならない」(20号の巻頭文)と述べているように、「女装を生活の糧にしている女形や舞踏師匠や男娼」と明確に区別された趣味としての女装(アマチュアリズム)をはっきりと提唱した点にあります。その基本理念と人脈は、1960〜70年代に活発に活動する本格的なアマチュア女装集団「富貴クラブ」へと受け継がれていくことになるのです。 |
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