日本女装昔話
第1回】上野の森の男娼(1940年代後半)
「中学に入ったばかりのあたしはね、『男娼』て言葉に胸をジーンとさせたものなのよ」
  
昨年めでたく女装生活50周年を新宿ワシントンホテルで華やかに祝った「ジュネ」(新宿歌舞伎町)の久保島静香姐さんは、遠い少年の日を懐かしむように語ってくれました。
     
少年時代の静香姐さんが胸をときめかせた「男娼」とは、昭和20年代前半、アメリカ軍の空襲で焼け野原となった東京が、敗戦後の食糧難・物資不足による混乱の最中にあった頃、上野を中心に活躍した女装のセックス・ワーカーたちのことです。戦後日本の女装史を語るにあたっては、まず彼女たちに登場してもらわなければなりません。
  
彼女たちは、夕闇が濃くなる頃、上野の西郷さんの銅像の下あたり(山下)や不忍池の畔り(池端)に立って道行く男を誘い、上野のお山の暗がりの中で(つまり露天で)、性的サービスを行ったのです。終戦間も無い1946年(昭和21)初めからぽつぽつ姿が目立つようになり、全盛期は1947〜48年(昭和22〜23)で、その数は30人を数えるほどでした。
   
彼女たちの出身はさまざまで戦前から浅草辺りで薄化粧で客を引いていた「男色者」、戦災で活躍舞台を失った女装演劇者(「女形崩れ」)、軍隊生活で受け身の同性愛に目覚めた復員兵などが中核でした。年齢は23歳から45歳で、平均は30歳(1948年の調査)、案外
年齢が高いところに彼女たちの辛苦の人生がしのばれます。現在、わずかに残されている写真を見ると、彼女たちの多くは、当時の女性ファッションの主流だった和装が中心で、洋装の人はまだ少なかったようです。容姿もさまざまで、女性としても美形の部類に入る人もいれば、ただ女装したオジさんに近い人もいました。
         
そうした彼女たちの生態をもっともよくうかがうことができるのは1949年4月に刊行された小説、角達也『男娼の森』(日比谷出版)です。これによると彼女たちは、自
分たちを「オンナガタ」と称し、仲間を「ご連さん」と呼び、数人単位で上野駅に近い下谷万年町(現・東上野4丁目)などのアパートに住み仕事場である上野の山では、男娼群全体を代表する「お姐さん(姐御)」に統率されていたようです。上野を本拠地とする数多い女性の街娼(パンパン)達に比べれば、おそらく10分の1程度の小集団だったようですけども、それだけに団結は
固くまた何か事が起こる、日ごろはライバル関係にある女娼であっても庇ってやるような「男気」のある「お姐さん」もいたようです。
     
1948年11月、警視総監田中栄一(後に衆議院議員)が上野の山を視察中にトラブルとなり、「とき代」さんという男娼に殴打されという事件が起こります。以後、警察は上野の山の夜間立ち入り禁止措置など、そのメン
ツにかけて風紀取締(狩込み)を強化しまた。これによって上野の男娼の全盛は終わりを告げ、彼女たちは、新橋や新宿など都内各地の盛り場に新天地を求めて散って行ったでした。
[画像資料] 画像をクリックしていただければ大きな画像が見られます


「資料1-1」


「資料1-2」


「資料1-3」
資料1-1  角達也著『男娼の森』の表紙
資料1-2
資料1-3
美貌の男娼
(小峰茂之・南孝夫『同性愛と同性心中の研究』1985年 小峰研究所発行より)