日本女装昔話
第20回】  女給志望の女装者 (1830年代)
第18回で「荒木繁子」という明治末期〜大正期の有名女装者を取り上げました。今回は、その後日談です。
 
『読売新聞』昭和11年(1936)12月1日の紙面に「これが課長さまの長男」「彼氏の“女百態”です」という、ちょっとおどけた大見出しとともに中年女性?の写真が載っています。針仕事をしている姿と三味線をひいている場面の2枚で、「二度結婚、女教員、女給の半生」という小見出しがついています。
 
「職を探してください。家政婦でもなんでもいたします」と、新場橋警察署(現在の日本橋兜町)に訴え出たこの人物、林芙美子と名乗っていますが、本名が「繁」であること、出身地や経歴からして、『読売新聞』明治44年(1911)3月4日号に「美人に化けた荒木繁夫」として掲載された人物と同一人であることは間違いありません。
 
今回の記事によると、彼女の波乱の人生は次のようなものでした。新聞に取り上げられた後、19歳で会社員の男性と「結婚」、岐阜県で2年間、妻としての生活を送っていましたが、21歳の時、徴兵検査のため本籍地の大分県に帰郷、女装で検査を受けたもののもちろん不合格。ところが夫の元に戻ると、そこには本物の女性が妻として納まっていて、手切れ金200円(大金!)で泣く泣く離別。
 
その後、和歌山県で株屋の男性と「再婚」。病身(結核)の夫に5年間尽くし、その間に女髪結を始め、夫に死別した後も女弟子2人を置く女髪結業で生計を立てていました。ところが、同業者に男であることを見破られて店をたたみ上京、カフェーの女給や旅館の女中を点々としたあげく、職に困って警察署に願い出たのです。
 
そのことが新聞で報じられると、彼女が宿泊していた旅館には、小料理屋やカフェーから引き合いが殺到し、中にはわざわざ訪ねてきた経営者もいて、首尾良くカフェーの「女給」として就職が決まりました。
 
12月4日の『読売新聞』には、「ネオンの灯影に彼氏の女給ぶり」「願ひかなった女装の男性」という見出しとともに、日本橋茅場町のカフェーで男性客にお酌をする艶姿が掲載されています。ただし、初日のチップは1円80銭で「ねぇ、これではあたしやってゆけないわ。お白粉代にもならないわよ」と彼女は嘆いています。
ちなみに当時の物価は、天丼が40銭、公務員の初任給が75円ですから、現在比で約2500倍くらいでしょうか。とすると、彼女のチップは4500円見当になります(当時の女給はチップ制で固定給はありません)。
 
ところが、就職の喜びもつかの間、警視庁からの「男の女給はまかりならん」という無粋なお達しで、実働わずか2日で彼女は失職してしまいます。理由は「善良な風俗を害し、大衆の猟奇心をそそる」というものでした。
 
さて、この文章の最初の方で「同一人であることは間違いありません」と書きましたが、実は一つだけ問題がありました。それは年齢です。
 
彼女が最初に新聞を賑わせたのは明治44年、19歳の時でした。それから昭和11年まで25年の歳月が流れ、彼女は44歳になっているはずです。ところが、昭和11年の新聞記事に記された年齢は、どうしても「四四」に読めません。
 
私の手元にあるのはCD−ROMの縮刷プリントなので、わざわざ国会図書館に行ってマイクロフィルムを拡大投影して確認しました。そこに記された年齢は「三五」。彼女、9歳もサバを読んでいたことになります。年齢のサバ読みは女心の常ですから、とやかく言うつもりはありませんが(私もさんざんサバを読みましたから)、それで通用したのですから見事と言うべきでしょう。
 
師走の寒空に再び失業の身となった彼女のその後はわかりません。でも、ここまで女として生きたら、もう男の生活には戻れなかったでしょう。もし、彼女が太平洋戦争の戦火をくぐって70歳まで生きたら、昭和37年(1962)まで存命のはず。ちょっと怪しいおばあさんになっていたかもしれません。会って、波瀾万丈の「女」の人生のお話を聞きたかったです。
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「資料20-1」


「資料20-2」
資料20-1  『読売新聞』1936年12月1日号 
資料20-2 『読売新聞』1936年12月4日号