日本女装昔話
第18回】  明治時代の有名女装者、荒木繁子 (1910年代)
皆 平成の世も15年ともなると、明治生まれで存命の方も稀になり、明治時代は歴史そのものになろうとしています。今までこのコーナーでは戦後の女装者の歴史を取り上げてきましたが、今回は、90年以上前の明治時代のお話です。
 
『読売新聞』明治44年(1911)3月4日の朝刊に「美人に化けた荒木繁夫」という見出しの記事が載っています。しかも、この記事、小さいとはいえ写真入りなのです。当時の新聞の紙面には、写真は数えるほどしかありません。記者や読者の興味津々な様子がうかがわれます。
 
当時の女性の流行の髪形である庇の張った束髪にやや面長の美貌を思わせるのこの写真、たぶん新聞に掲載された最初の女装写真ではないでしょう。
 
話題の主、荒木繁子(本名:繁夫)は、この時、花も盛りの19歳。彼女、実は明治末〜大正期にかけて「女性的男子」の典型としてちょっとした有名人でした。この記事以外にも、性科学者として著名な田中香涯や澤田順次郎が論文や著書で繁子について述べています。それぞれ内容が食い違うところもありますが、合わせて彼女の行状をたどってみましょう。
 
彼女は、専売局書記を勤める父の長男として名古屋市に生まれました。年齢から逆算すると、明治26年(1893)の生まれです。幼時から女のまねを好み、高等小学校卒業ころには、裁縫、生け花、茶の湯、琴、三味線と当時の女性の嗜みを一通り身につけ、芝居も風呂も女性と連れ立って行く始末でした。持て余した両親は、彼女を広島県尾道の親戚に預けます。
 
ところが、そこでも化粧三昧の日々、とうとう18歳の春、髪もハイカラに結い、女性の姿となって家出、料理店の住み込み女給になって三原、岡山、姫路と山陽道を転々とし、5カ月ばかりいた料理店では、ハイカラ芸妓として評判を取ります。その後、神戸で印刷所の女工をしていた時、ある男性に見初められて嫁入りしましたが、すぐに離縁となり、明治44年1月、生まれ故郷の名古屋に戻ってきました。
父の縁故を頼って行けば「荒木氏には長男はいたが、長女は聞いたことがない」と不審がられ、西洋料理店に雇われたものの落ち着けず、結局、名古屋市内の仏教慈恵学校の女教師を志望します。しかし、教員の欠員がなく、炊事その他の雑務員として雇われることになりました。
 
ところが、不審な点有があるという密告によって警察に拘引されされてしまいます。取り調べで犯罪には無関係として放免されましたが、男性であったことが露見してしまいました。
 
校長の好意で勤めは続けることはできたものの、新聞記者や物見高い人の来訪が多く、それを避けるために上京して神田淡路町あたりに住んでいるらしいという噂を記事にしたのがこの『読売新聞』だったのです。
 
ところで、繁子は別の記者に対して次のような希望を語っています。「私はあくまでも女として世を送りたいのでございます。また、男ということを承知して嫁にもらってくださる人があれば、末永く添い遂げますわ」
 
その言葉の通り、繁子はいろいろな波乱の末、23歳の頃、ある人の世話で蚕糸会社員と結婚し、退職して郷里に帰る夫に従い、大正7年(1918)の時点では、岐阜県某村で夫、姑、小姑に嫁として仕える日々を送っていたようです。
 
繁子は、今の時代ならば、かなり典型的なMTFの性同一性障害と診断されるでしょう。性を越えて生きたい、男として生まれながら女として人生を送りたいと願う気持ちは、明治時代も現代も変わりはないのです。
 
(参考文献)

田中香涯 「女になりすました男」
       (『変態性欲』6-6 1925年6月)

澤田順次郎 『変態性医学講話』
        (通俗医書刊行会 1934年6月)
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「資料18-1」


「資料18-2」


「資料18-3」
資料18-1  荒木繁子の写真と掲載記事。 (『読売新聞』1911年3月号)
資料18-2 写真拡大図
資料18-3 こちらは、昭和12年(1937)、銀座7丁目で刑事の袖を引いて拘引された25歳の女装者。
「これが男に見えますか」という見出しの通り、大きな市松柄の振袖の着物に華やかな色柄の羽織、ショールをかけた当時の流行ファッションを見事に着こなしてます。
(『東京日日新聞』1937年3月31日号)